カテゴリー別アーカイブ: パピエstory

story32.春本番、家や庭が映える季節に

桜の時期もほぼ終わりましたね。今年は花冷えもあり、例年より長い期間、桜の花を楽しめた気がします。関西にも多くの桜の名所があり、この時期、大いに私たちの目を楽しませてくれますが、我が家にも1本だけ桜の木があります。桜にも寿命があるらしく、一説ではソメイヨシノの寿命は70年くらいと言われています。我が家の桜の木、私が物心ついた時には既にあったので少なくとも50年は生育しており、家が建てられた時に苗木が移植されたのであれば樹齢約100年ということになります。できるだけ、長生きしてもらうことを願うばかりですが、接ぎ木をすることで、他の場所に増やすことができないかと考えたりもしています。

この時期の植物といえば桜が真っ先に思い浮かびますが、それ以外にも多くの植物が育ち、花咲かせる季節でもあります。我が家の花で言うとタンポポ。昔から、アトリエ裏の芝生部分に咲いていましたが、最近、咲く花の量が格段に多くなったような気がします。一方で、昔は、スミレやシロツメグサも混ざって咲いていたのですが、最近はあまり見られなくなりました。もっと前は、つくしもよく生えていたのですが、これもいつしかなくなりました。時を経るごとに、1つの種が独占してしまいがちで、多様な種が混在することが減ってきたように思います。

このことは、この時期に我が家で良く育つ植物である竹(たけのこ)についても言えます。この時期、たけのこが方々で顔を出し、朝掘りのたけのこを食すことができるのは本当にありがたいことですが、一方で掘る時期を逸したたけのこは見る見る伸び、あっという間に竹になります。竹の成長力は縦にも横にも凄まじく、どんどん背を高くするとともに、他の植物を押しのけてどんどん生息域を拡大していきます。この時期の風物詩で良い部分もあるのですが、気を抜くと家屋まで浸食されかねない大変な部分も持ち合わせています。

このように、春は、冬の間じっと力を蓄えていた植物が一気に成長し、植物によっては美しい花を咲かせる季節でありますが、冬の間裸になっていた木が一気に若葉を付ける季節でもあります。この時期、いろいろな色の花も楽しめますが、若葉の新緑が、最も春を感じられ、最も映える色であると思います。

若葉

Katsuji

story31.新元号「令和」に決まる、名前の由来あれこれ

本日から4月、新しい年度が始まります。それとともに、先ほど「平成」から変わって新しい年号が「令和」と発表されました。令和は、万葉集の「初春の令月にして気淑く風和ぎ・・」の歌が由来で、「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」といった意味が込められているそうです。このように物の名前、特に人名や地名にはいろいろな由来があり、そのあたりを調べてみると、少し歴史を紐解くことができて面白いです。

私が住んでいる市は「吹田」。田んぼの字が入っていることからも分かるように、大阪北部の辺りは、大阪中心部とは異なり、昔は農村中心の地域だったことが想像されます。「吹く」という字が付けられているのは、低地の田んぼだったために水が盛んに噴き出したことに由来するそうです。

また、吹田市の中でも、私が住んでいる集落は旧山田村になります。田んぼが多い上に、万博公園あたりの丘陵地に代表されるように山も多かったことが想像されます。「山田」は、江戸時代、幕府や旗本などの支配下にあり、交通の要衝だったそうで、今でも多くの寺院が残っています。山田の中心部には戦前からの建物が多く、板塀、板壁の町家、白壁の土蔵などが多く見られます。

このように、住んでいる場所は「吹田」「山田」など少しもっさりとした地名なのですが、この辺り一帯を「千里」と呼ぶ場合もあります。昔、山田村の隣の佐井寺辺りは「千里村(ちさとむら)」という村でしたが、大正時代、その村の西部に高級住宅地が開発され、そこが「千里山(せんりやま)」という地名になったそうです。その辺りは標高60m前後のなだらかな小山が沢山あり、千里にもわたって連なるように見えたことから、そう呼ぶようになったとのことです。その後、千里ニュータウンの開発頃から、豊中から吹田、茨木あたりにかけての丘陵地一体を「千里」と呼ぶようになり、千里山、千里中央、家の最寄り駅である千里丘など、かなり広範囲にわたるエリアが千里と呼ばれます。千里というと約4,000km。日本の長さを遥かに超える長さで、どことなく雄大な印象を持ちます。「せんり」という響きも含め、何となく洗練された感じで好きな呼び方です。

子供の頃からこの辺りを遊びまわり、山田中学、千里高校、吹田キャンパスの大学に通った青少年期。この年になっても、この界隈には変わらぬ愛着を感じています。特に、写真にある旧山田村の中心部は今でも古い街並みが残っていて、散策すると、とてもノスタルジックな気分になります。 山田の街並み

Katsuji

story30.使者が呼び寄せた、お宝発見!

お宝発見と言っても、なんでも鑑定団に出るような壺や掛軸が出てきたという訳ではありません。でも、自分にとっては、ずっと見つけたいなと思っていた念願のお宝をついに発見しました。

先日、我が家の調査のため、聴竹居倶楽部等の代表理事である松隈先生をはじめ、住宅遺産トラスト関西や古材文化の会の方々、写真家の方などがお見えになり、1日かけて、家の内外の撮影やさまざまな調査など、精力的に行っていただきました。撮影については、できるだけ家の原形をレンズにおさめるため、家具から電気製品、自転車、ポストに至るまで、現生活に関わる物は全て片付けるとともに、徹底して光の量や色にこだわり、照明器具や反射板など細部まで気を配った非常に本格的なものとなりました。調査については、まず棟札がないかを確認するため、ヘッドライトを頭に付けて、2階の屋根裏に潜入いただきました。棟札とは、建築の記録・記念として、建物内部の高所に取り付けられた札のことで、それには竣工年月日や建築家、大工さんなどが明記されているそうです。ただ、残念ながら、その札は見つかりませんでした。それ以外にも、蔵の採寸など、これまで積み残していた調査を適宜行っていただきました。さらに、別の方には、施主である祖父(永井専三)の手紙など、家に残っている古い書簡を調べていただきました。これまでも、古い書簡から藤井厚二という名前が見つけられないかと思って、それっぽい書簡を調べていましたが、なかなかその名前は見つかりませんでした。ただ、調査前日、たまたま家の外の納屋を掃除した際、祖父の時代と思しき書類が入った箱を見つけ、家の中に移動しました。それでも目ぼしい書簡は見つかりませんでしたが、調査当日、前日見過ごしていた別の書類の束を念のため確認してみたら、その中身は建築当時の領収書や請求書など家屋建設に関わる書類群だったのです。さらに、確認すると、建築家藤井厚二と施主永井専三のやりとりをしている手紙類、今であれば電子メールで取り交わすような内容のものが数多く出てきました。これまでも藤井厚二建築というのは99%確実であったのですが、これで100%立証されたことになります。しかも、聴竹居も手掛けていた酒徳金之助という名工の大工さんが関わっていたことも判明しました。

今回来られた松隈先生は、長年藤井厚二建築の研究をされている、いわば藤井厚二の使者であり、我が家を訪れた使者が、その日にこの手紙も呼び寄せたのではないかと思います。また、祖父の永井専三も上から私を操り、これまでずっと気を揉んでいたけど、今回やっと見つけたかと胸をなで下ろしたような、そんな気がしています。 藤井厚二手紙

Katsuji

story29.福壽堂秀信あんこイベント盛況に開催

一昨日2月27日、和菓子の老舗、福壽堂秀信さんの新商品「Ann’s Plus」を使ったフードメニューイベントをパピエで開催しました。「餡(あんこ)」の新しい楽しみ方を提案された様々なお話や試食会など、非常に楽しい1日となりました。新商品のパッケージの絵は妻が描いていて、商品を通じて妻の絵が多くの家の食卓に並ぶこと、非常に嬉しく思います。また、このイベントで餡が美味しかったことと同じくらい印象的だったことは、ひな祭りにちなんでひな人形が飾られたことです。イベントでは、社長さんから節供にちなんだ食べ物や植物などのお話もいただきましたが、このように季節の節目の日に、その日らしい飾りつけをして、その日にちなんだ食べ物を食す、こういったことを行うと、身が清まるとともに、本当に心が温まります。 ひな人形 我が家でも、私が子供の頃は、節目の日には、その日にちなんだ食べ物を手作りしていました。例えば、1月1日のお正月に向けては、お餅つき。昔は蒸籠でもち米を蒸して、臼と杵で餅をついて、家の中で丸めて餅箱に入れるということを家族総出でやっていました。今なお臼と杵はありますが、なかなか家でつくことはなくなりました。3月3日はひな祭りで、5月5日は子供の日。菱餅や柏餅などはお店で購入しましたが、ひな人形を家に飾り付けたり、こいのぼりを庭に掲げたりしていたことは鮮明に記憶しています。7月7日の七夕の日も、家の竹やぶから笹を切り出して、短冊など飾りつけをしたものです。節供でない日でも、稲荷祭りの日にはいなり寿司を作ったり、お祝い事の日にはバラ寿司を作ったり、十五夜の日は月見まんじゅうを作ったり。また、常に漬物や梅干しを家で作り置きしたり、いろんな食べ物を丹念に手作りしていたものです。

昨今、保存が効き、簡単に調理ができる様々な食料品を買うことができるようになっていて、自家製の食べ物を手作りする習慣が徐々に減ってきています。四季や節目を感じられる、手作りの食べ物やお花、飾りつけなど、ひと手間をかけた丁寧な暮らし方は本当に良いものだと思います。一昨日のあんこイベントで、改めてそのような気持ちになりました。

 Katsuji

story28.冬の寒さが身に染みる我が家の暖の取り方

ここ最近、建築や設計関係の方が家に来られ、中を案内するケースが多くなっていますが、ほとんどの方が「初めて見た」と驚かれるスポットは配電盤がある電気室です。母屋を立てた祖父は、当時、水力発電用ダムの設計技師として電力会社に勤めていたそうで、その影響もあってか、配電盤設備の重厚さはなかなかのものに見えます。今でいうブレイカーの役割を果たす機器ですが、竣工当時の約100年前にそれほどの電力を使う用途があったのかはよく分かりません。もしかしたら、当時、聴竹居にあるような大量の電力を使う冷蔵庫やストーブがあったのかもしれませんが、私が生まれた50年前頃については、電気の使い道と言えば、主に照明で、あとはテレビや洗濯機、冷蔵庫など限られた家電製品程度だったように思います。冷暖房機器については今のようにエアコンはなく、夏の冷房は専ら扇風機、冬の暖房は石油ストーブやこたつなどが主だったように記憶しています。

配電盤

我が家は当時新しい考え方だった環境共生住宅であったと聞いておりますが、主に夏の暑さをどう凌ぐかということに配慮された設計思想が多いです。逆に冬の寒さ対策はあまり施されておらず、特に当時応接室だった部屋は、暖房が効きにくい高い天井に、底冷えのする板間の部屋、さらに、格子のガラス窓からすきま風が入り、網代の天井から冷たい風が抜けるといった、家の中でも家の外にいるような冬の寒さが身に染みる造りの家になっていると思います。特別に暖房機器が整っていたという訳ではなく、子供の頃は、比較的気密性の高い奥の畳間に、石油ストーブとこたつをベースに家族みんなで過ごす時間を長くすることで、冬の寒さを凌いでいました。結婚し、子供ができ、二世帯住宅として再びこの家で過ごすようになった際、応接室をリビングルームとして使っていましたが、我が家でも最も寒い網代天井の板間の部屋であり、本当に毎年寒い冬を過ごしていました。エアコンはあまり効かず、薪ストーブなどを導入するには煙突など改築コストがかかるなど、なかなか有効な暖房手段が見つかりませんでした。最近、奥の気密性の高い部屋に生活スペースを移すようになってからは、エアコンの暖房で比較的快適に過ごせるようになりましたが、以前のリビングルームは、現在、教室やイベントスペースに利用し始めているので、冬の暖の取り方については、今後もう少し知恵をしぼらないといけません。

我々家族として、寒い家で過ごしてきた良い面と言えば、冬に風邪をひくことがほとんどない強い体になったことでしょうか。

 Katsuji